すぐに唱えられる「日本語のおきょう」(読経用)        okyou

@、妙法蓮華経 如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第十六<法華経・自我偈>

 おシャカさまの私(わたくし)が、み仏と成りしより、このかた過ぎし年月(としつき)は、限りなく永く久しきなり。常に教えを説き示し、数限りなき多くの人々を導きて、悟りの智慧(ちえ)に到らしむ事、限りなき年月の間なり。
 人々を救わんが為に、方便(てだて)を用いて臨終を現(あらわ)せども、真実には臨終せず、常に此処(ここ)に在って、教えを説き続けるなり。この私は、常に人々の側にいて、さまざまな不思議な力を用いるが故に、とらわれた心の持ち主には、おシャカさまが側(そば)にいても見えず。
 多くの人々は「おシャカさまが亡くなられた」と思いて、遺骨をさまざまに供養し、心より恋い慕いて、深き願いの心を生ず。この人々は信心厚きのみならず、素直にして心やさしきなり。ひたすらに、み仏に会いたてまつらんと思いて、それぞれの身体も、命をも惜しまず。
 その時こそ、この私は多くの弟子たちと共に、霊鷲(りょうじゅ)の山に出現するなり。おシャカさまの私が、その時に人々に語る「常に、あなた方の側にいて、死なず。すぐれた、てだてによって、臨終の姿を現わしたるのみ」と。
 他の国の人々によって信仰せらるれば、この私は、そこに行きて、すばらしき法華経の教えを説く事につとめん。しかるに、あなた方、その事を知らずして、おシャカさまは、すでに死すと思えり。
 この私は、人々が苦しみの海に溺れるを見る時も、こと更に姿を現す事につとめず。人々をして深き願いを起こさしめ、心の底より恋い慕うが故に、ようやく現れて、すばらしき法華経の教えを説き示すなり。
 この私の不思議な力は、このように偉大にして、限りなき昔から、この世のみならず、多くの世界で、すばらしき法華経の教えを説くなり。
 この世が終わりを迎え、人々が大火に焼かれる時が来ても、私の国は安全で、信心厚き人々と一緒なり。そこには美しき草花が生い茂り、あらゆる物は宝石で飾られて、光輝き、人々は楽しみ暮らしたり。神々は、さまざまな音楽をかなでられ、美しき花を、み仏や人々の上に降りそそぐ。
 この私の国は壊(こわ)れざるに、迷える人々は「世界が破壊され、苦しみや悩みで満ちあふれている」と思えリ。かたよった心の持ち主は、悪い行いをするが故に、限りなき永い年月を過ごせども「み仏と、その教えと、修行に励む僧侶たち」の名前すら、聞けず。
 広き心にて、こだわらぬ素直な人々は、私が此処に在って、すばらしき法華経の教えを説く姿を、しかと見るなり。これらの人々には「おシャカさまの命は、永遠なり」と、言いし事も、あるなり。
 永き後に、ようやくみ仏に会いたてまつる者には、おシャカさまの私には、会いがたし、と説く。
 この私の智慧の力はすばらしく、後光の輝きは限りなし。永き修行の故に、おシャカさまの私は、限りなき命を得るなり。あなた方、広き心の人々よ、この事を疑っては、ならんぞ。その疑いの心は、とわに断ち切るべし。この私の言葉は、まことにして偽りなし。
 医師(くすし)にして方便にたくみなる人、狂える子供たちを治さんが為に、生きておれども、死せりと言う時、偽りなりと言いうる者、なきに似たり。おシャカさまも、この世の父にして、人々の苦しみと悩みを、救う者なり。
 とらわれた心の人々は、迷えるが故に、この私が側にいても、亡くなったと教えるなり。それは、常に私がいると思えば、人々はわがままな心を起こして、なまけだし、欲望のとりことなって、不幸せなる生活に落ち込むが故なり。
 この私は、常に、あなた方を見ており、すばらしき法華経の教えに従う者と、従わない者とを見極めて、その人々の心がけに応じて、ふさわしき教えを説くなり。おシャカさまの私は、常に、あなた方の事を考え続けており「いかにすれば、すべての人々を、この上なき教えに導き入れ、すみやかに、み仏の悟りに到らしめん」と。