どんな事でも「自分で、よ〜く考えてみよう!」すべて「自己責任」に、つながると思い、自分の頭で考えて、行動したいね!?                                

@、マンガ「サザエさん」の作者、長谷川町子さんは生前中に、「1つは、自分が死んだら、人には知らせず、親族だけでの密葬にして欲しいこと。2つは、病気になっても、入院させないで欲しいこと。3つは、手術をしないで欲しいこと」を、同居のお姉さんに頼んでいて、この3つは、すべて叶えられました。
しばらくして、作家の富岡多恵子さんが、新聞紙上で、今の時代、病気になっても、入院を拒み、もし手術が必要とされる場合に、それを拒むのが、ほとんど不可能に近いことを考えると、町子さんのお考えには「老いを病気に、すり変えたくない」という、はっきりとした、自己決定と、行動を感じます、と言っておられました。
「老い」は進む一方で、その先に死があり、治る見込みのない不安であるが、病気は、治る見込みのある不安です。
「進んで行く、老いを自覚して、耐えて行くより、病気だと、決めてもらった方が、楽である」と、私たち、皆が考えているのだが、本当に、それで、いいのだろうか? 介護保険が始まる前に、よ〜く考えてみようね!

A、「朝焼け小焼けだ、大漁だ、おおばイワシの大漁だ。浜は、祭りのようだけど、海の中では何万の、イワシのとむらい(葬式)するだろう」 (詩・金子みすず)
人間は、食べなければ死ぬ。この私が、生きる為には、他の生き物の命を、いただく必要があるのですね。
仏教では、キリスト教のように、他の生き物は、人間の為に存在する、とは考えません。人間の命も、他の物の命も同じだと、考えています。
謙虚になって考えると「人間というものは、迷惑をかけずには、生きて行けないものである」ことが、わかりますね。
ですから「迷惑をかけない、人間になる」というのは、実際には、無理なことですし、そう思っていると、人から迷惑をかけられると、腹が立って、暴力事件を起こすことにも、なりかねません。
だから、迷惑をかけない人間になろう、とするよりも 「迷惑をかけている事を、忘れない人間になる」ことや、さらには「迷惑をかけている事を、許してもらっているのだから、この私も、他の人の迷惑を、許してあげよう、という人間になる」ことが、一番、大切で、尊いのではないでしょうか?
もとボクサーで、お笑いタレントだった、故たこ八郎さんは「迷惑かけて(いるのに、許してもらって)、ありがとう」が、口グセだった。
寛大な心で、お互いさまと、言えるようになるには、どうすれば、いいのかを、よ〜く考えてみようね!

B、「去年から今年にかけて、病気が続いた、妻が病み、子供がケガをした。うち続く不幸は、私をぐらつかせ、悪魔は、私をそそのかす。苦しむ者を、前に見ては、み仏のお言葉も、瓦礫のように、くずれ去ろうとする。この私の弱さよ、心のはかなさよ。ああ、この試練に感謝して、心から、手を合わせる事ができるのは、いつの日に、なるだろうか?」(詩・坂村真民)
人間は、弱いものです。不幸や災難が続くと、色々なことを、思いがちになります。まさに、魔がさして、あやしげな宗教に、入ってしまうのは、こういう時ですね。
しかし、ご利益を売り物にしている宗教は、人間の欲望に基づいたニセものであり、「願いごと」が叶わないと、「あなたの信仰が足りない」とか、「お金(お布施)が足りない」とか言って、いつまでも、ノルマを増やしていきます。
これでは、不幸から、立ち直ることができませんね。真実の教えとは、ニセの宗教によって、束縛された心を、独立・解放させるものなのです。
仏教は、なにごとでも、自分の頭で考えて、常に、この私の心の中を、よく見つめて、反省し、その上に立って、自分で決めることを、求めます。だから、束縛されることが、ありません。
あなたが、不幸や災難にあった時こそ、どうすれば、いいのかを、よ〜く考えてみて下さいね!

C、「自殺(自死)」を仏教では、どう考えるか?

「この私が、死んで行く、縁(直接の原因と間接の原因)は、無量にある」
この私が、死んで行く縁(えん)や、きっかけは、病気やら事故やら、何になるのか、わかりませんね。ひょっとしたら、自殺(自死)するかも、知れませんよ!
あなたの親戚や、親しいお友達に、自殺(自死)された人がいて、「なんで、自殺(自死)なんか、したのだろう?」と、お考えになった事はありませんか?その事で、残された家族が、苦しんでいるケースも、多いのですよ。

仏教では「死の縁は色々であるから、人間の死に方も色々だ」と、教えています。この私が、どんな死を迎えるかは、出会う縁によって、変わります。
しかも、その縁は、自分で選ぶ事ができません。
「自殺(自死)」は、一見したところ、自分で選んだ死のように、見えるかもしれませんが、「自殺(自死)という、縁に出会ってしまった結果」と、いうべきでしょう。
それに、み仏さまは死の縁を問わず、すべての人を救って下さいますから、自殺(自死)も、何の障害とは、ならないのですね。
また、自殺(自死)で生命を亡くす人は、現在、生きている、この私よりも、はるかに深く人生を味わって来たのかも知れませんね。
今、み仏さまは、苦しみ悩んで、自殺して行った人を、大きな手で抱きかかえ、「ほんとうに、ご苦労さまだったね!」と、やさしく、ほほえんで、迎えて下さっている事でしょう。
皆さんの中には、自殺(自死)を非難する人もいるでしょう。しかし、ほんとうに非難できる、資格をもった人など、はたして、いるのでしょうか?

 私が、こう言ったからと、いって「死ねば、楽になる!」と思って、安易に自殺(自死)するのは、間違いです。「どんな死を迎えるのか?」という縁は、自分では選ぶ事ができないのが、本当なのですから…
この世で学ぶべきものを、すべて学び尽くした時、人は自分の肉体を脱ぎ捨て、もともと住んでいた世界に戻れるのですからね。

自殺(自死)した人の家族や友人が「なぜ私たちは、こんな苦しみを背負いながら、毎日、悔やみ続けなければいけないのか? と思っていたら、実は多くの人々が、悲しさを噛み締めながらも、必死で生きている事に気が付きました。今まで気づかなかった、その事が、今はっきりと、見る事ができます。これが死んで行った人の、悲しいプレゼントなのでしょうか…?」と、言っていますよ。

死にたいと思っている、あなた「生きていて良かった、と思える日が必ず、やって来ますから」よ〜く考えてみて下さいね!


D、「死にたいと思っている、あなた」へ

 あなたが「死にたい」と思うのは当然なことなのです。 なぜなら、ヒトは死ぬように肉の細胞に、遺伝子を 組み込まれて、産まれてくるからです。
 これを「肉のいのち」
と言います。 この「肉のいのち」を悪性なものとするのが、悪の魔なのです。
 この悪の霊が「肉のいのち」に宿ると、ヒトは「自殺(自死)願望」に捕まり ます。
しかし、次の言葉によって、自殺(自死)を中止した人がいました

 「私は自分のしていることが分からない。なぜなら自分の 欲することは行わず、かえって自分の憎むことをしてい る。
 善をしようとする意志は自分にあるのだが、それを
する力がない。これは、私の肢体のうちにひそむ、『肉の 法則』であって、これが『心の法則』に対して絶えず 戦いを挑んで、悪の虜にして行くからである」

  これは「新約聖書」ローマ人への手紙・七章の言葉です。
 死にたいと思っている人は、だまされたと思って、この文章をひも解いて みてください。奇蹟が起こります。
「奇蹟=気積」、つま
り、あなたの思いを積み重ねる事によって、コトが成就される、というこ とです。

現在の教育や科学知識を身につけた私たちは、自然に、ものごとを分けて考える習慣が身についていますね。 しかし、この考え方が苦しみの原因なのですよ。
お釈迦さまは「ものごとを分けて考えることは、苦しみにつながる」と、戒められています。 分けて考えると、どうしても選り好みをしてしまい、区別が差別となり、自分の好みにトラワレテしまい、正しい判断が出来なくなり、苦しみが生じるのですね。 世の中、楽しい事ばかりではないので、自分の気に入らぬ事に出会うと、苦しく感じるようになってしまいます。
そこで、お釈迦さまは「比べるな。くらべると苦になる!」と、教えています。 自分の苦しみと、他の楽しみを比べると「なぜ、私が苦しまなければならないのか?」と、悩むようになりますね。 比較する原因は「分別」からですよ。
だから苦しい時には、素直に「苦しい、苦しい」と、苦しみに浸り切るのです。 つらい時にも同じように「ツライ、ツライ」と、つらさに成り切るのです。 すると苦しいままに、ツライままに、イライラが静かになりますね。
そればかりではなく、苦しい逆境に出会ったオカゲで、トントン拍子の順境の時には分からなかった、人生の醍醐味が味わえたら、真実の人生の価値を知る事ができるのですよ。
作家の故・吉川英治さんが「雨の日には雨を愛し、風の日には風を愛す」と、さらに詩人の坂村真民さんは「苦しみが、私の目を開いてくれた…」と、教えて下さいましたように、逃げはダメで、こちらから積極的に、苦しみと一体となる事によって、窮地を脱する事が出来るのではないでしょうか?

死ぬことも大変だけど、生きて行く事は、そのナン倍もたいへんですね。 しかし大変だからこそ、生きていく価値があるのですよ。
その大変な人生を生き抜いてこそ、人間なのですね。 大切なことは「あなたの代わりは居ない!」と言うことです…
人生には、短距離ランナーも長距離ランナーも居る、と言う事ですから、他と比べずに、あなたの走り方で生きて行きましょうね。
今の時点で、あなたの人生の結果を決めても意味ありませんし、これから、どう変わるか?分かりませんね。 ゆっくり歩めば良い、急ぐ事はありません。
この世を精いっぱい生きた人にこそ、あの世が約束されていますし、また楽しみにもなる訳ですからね〜

私の間違いだった、この私のマチガイだった。 こうして草に座れば、それが分かる」(詩人・八木重吉)
自殺(自死)という自己主張ではなく、生も死も、自己の意思で選択決断することの出来ない絶体絶命の自己放棄や、絶対の自己否定をする事によって、この私の死が、いつの間にか死につつ生き、さらに生かされつつ生きる、という転換を遂げる事が出来るように成るのですよ。

「この悲しみを ヨシ!と受け入れた時、そこにタチマチ光が生まれる、絶望と救いの、かすかな一筋」(八木重吉)
簡単に逃げ出せない状況にある時に、どうしようもない絶望を、しっかりと受け止めてみると、あなたの心の奥底に、何かが見えて来るでしょうね。
あなたが、絶対絶命の危機を受け入れてこそ、かえって事態が好転すると思いますよ。

「わが心の暗闇に気づいたら、こころの暗い奥底で、小さな星が光ります」
あなたが苦しみ抜いて、ザンゲしていると、ある日、自分の中に何か、ムクムクと大きくなって来るものが、ありますよ。 あなたが目をつぶっていると、遠くから小鳥のサエズリ、車や風雨の音、人々の声などが聞こえて来ますね。 外を歩いてみると、草花や日の光に季節の訪れを感じさせてくれます。 そうした小さな風景を、一つ一つ「よし、ヨシ!」と、受け入れて行くのです。
あなた自身を内外から包み込んでいる何かを、理屈ではなく、体で感じることです。 そうすると、この世界が、ずいぶんと違って見えてきますよ。


「気持ちを強く持てば、ものごとは好転するが、あきらめた瞬間、ダメになる」
死を考える程、行き場がなくなった時には、たとえ、どんなにボロボロになっていても、あなたが生きている事によって、ささえられている人たちがいる、という事を思い出してみましょうね。
どんな逆境にあっても、暗い夜はやがて明け、まぶしい朝日が上って来る、明日がやって来ます。 だから、あきらめずに生きて行けば、良いのですよ。
大切な人々に支えられている、この私であったのだ! という事を忘れては、いけませんネ。


E、「こんなに賢い人が多いのに、こんなに偉い人が多いのに、なんで、こんなイヤな世の中になったのでしょうか?」
なぜ、仏教が難しいのでしょうか?それは「知(理性)」を絶対化して、そこからしか、ものを考えようとしないからですね。
 ドイツの詩人、ヘルマン・ヘッセは
「危険なのは、勉強して行くにつれて陥る、あの知識という奴だ。どんなものも皆、頭を通らなくては気がすまなくなる」と、述べています。しかし、思わくがはずれるのが人生であり、計算通りいかないのが、人生なのですね。地球の生態系を崩し、自然を破壊したのは、人間そのもの、とりわけ人間の知性です。「知」に対するオゴリが、人間を崩壊に導きます。
 小説家の小林多喜二さんは
「闇があるから光がある。その闇から出てきた人こそ、本当に光のありがたさが分かるんだ。世の中は幸福ばかりではないんだ。不幸と言うものが片方にあるから、幸せがわかるんだ。だから、本当に幸せな人生を送ろうと思うならば、うんと苦しいことを味わってみなければ、なりませんね」と、言っておられます。 本当の、人間的な暖かさ、やさしさは、悲しみから生まれて来ます。苦しみを見届ける智慧が、苦から立ち上がり、苦を乗り越える力となるのですよ。
フランスの哲学者・パスカルは
「神仏を感じるのは心情であって、理性(知性)ではない。信仰とは、そのようなものです」と、述べています。私たちは知性とか、教養とかを身につけて、ますます自分自身を見失って、とても傲慢(ごうまん・自己中心)になっています。
今までになかった犯罪は、すべて、ここに原因があるのでは、ないでしょうか?今の日本は、他人だけを問題にして、自分自身の生きる方向を、忘れて去っては、いないでしょうか!?