bandou1  板東英二さん、来たる!

 平成十三年八月五日、静照寺お盆ご先祖供養
 の折、テレビやラジオで活躍中の、板東英二
 さんの講演会が十二時半から二時まで開かれ
 た。

 板東さんは、お寺の総代である和所さんの友
 人で、今回、お忙しい中を来て頂きました。

 板東さんを直に見ようと、静照寺本堂は超満
 員となり、入りきれない人々は新客殿(三十
 畳)にてテレビで、講演を見ていました


 「涙と笑いの人生ドラマ」

 こんなに、お迎えが近い人々の前で、また皆さんと
 の距離が、こんなに近い場所でお話する事は、初

  
(静照寺本堂にて、板東さんと、住職)

めてですね。

お盆で、ご家族そろってお参りする事は、とても有り難いなあと思います。
 今年のような暑い中で、お話をするというのは、まさに地獄のようでございますが、今日、一度、
地獄を味わえば、後はもう、お迎えか来た時には、きっと良い処へ行けるだろうと思っております。

 申し遅れましたが、私の宗派も同じ日蓮宗でして、名古屋でご先祖さまを、おまつりしております
ので、たいへん深いご縁だと感謝しております。

 人間というのは、不思議なものでございましてね。 普段、悪さをしたり、ウソをついたりしています
と、どこかで、謝りたいという気持ちが起こってまいります。

 4年前の、かしまし娘の正司歌江師匠の時も、そうだったでしょうが、こんな真直にスターと会える
という事は、なかなか無い訳ですから、とても素晴らしいことなのですよ。

 男性の方は、きっと板東が野球界で、すごかった事をご存じでしょうが、その前の高校野球の時
にも、日本中で話題になった程の、すごい人間だったという事を、覚えておいて頂かないと、「なんや、
テレビに出ている、お笑いタレントかいな」などと思われていたら、いけませんので……

 さっき、お寺のガレージに車を入れる時に、「オーライ、オーライ、アッ、板東が来たわ〜」と言われ
てしまって、なさけないやら、ありがた味がないやらで、情けなくなってしまいました。

 私は今、六十一歳になりましたが、戦後のドサクサで苦労しました、満州からの引き上げ者でござ
います。

 北朝鮮と中国の国境で生まれましたが、真冬は零下四十度ぐらいになり、大きな川が全部、凍る
程ですから、気候のきびしい土地でした。

  私が六歳の時、母と子供四人で一年半かゝって、やっと着のみ着のままで引き揚げて参りました。
 敗戦直後の荒涼とした満州鉄道の駅。
 駅とは言ってもホームがあるから、かろうじて分かるだけで、駅舎はソ連軍や中国軍が破壊つくし
ていました。

 いつ来るとも知れない汽車を待っているのは、日本軍に見放され、自分たちの足で祖国を目指す
日本人たちの群れ。 その集団の中に、私のような幼児は滅多にいません。

 皆、途中で中国人家庭に売られたか、衰弱死したか……。 私自身も、ほとんど体力は残ってな
かった。 それでも、がむしゃらに母の手をつかんで歩いていました。

 ガッシャーン! 大きな音をたてて無蓋車が止まる。祖国へ向かう船の出る港を目指して、所々、
爆破されて、途切れ途切れの満州鉄道の旅であった。

 四隅に柱が立っているだけの無蓋車に、ざっと四十人ほどの親子連れが乗っていました。 母親
たちは子供を真ん中に入れ、紐でお互いの体を結んで、汽車から落ちないようにして座っていたが、
山賊の襲撃が恐ろしかった。

 私の母は四人の子供を連れて、祖国を目指し引き揚げていました。 末っ子の私は、まだ六歳で、
広大な満州の道を、ひたすら母のモンペを握りしめて歩きました。

 疲れ切った母の目は、うつろでしたが、その視線の彼方には、祖国の大地が見えていたのでしょう。
 しかし私には母の後ろ姿しか、写らなかったし、母の背中だけが、すべてでした。 その後ろ姿を
見失わないように、どこへ行くのか分からない、長い長い旅を続けていました。 中国大陸をさまよう
事、八ヶ月、栄養失調になりながらも、しっかりと母のモンペを握りしめて歩きました。

 ガッシャーン! ふと頭を上げると、汽車は動き始めていた。 いつも突然、発車する。 汽車の上
では、母や兄姉たちが、恐怖にひきつった顔で、私を見下ろしていました。

 停車時間が長かったせいか、他にも数人の子供たちが線路に下り、一緒に座っていた記憶がある。 
汽車が発車する音に驚き、子供たち全員が一斉に、顔を上げた事を、よく覚えている。

 「英坊!」
 母が汽車の後部から、必死に手を差し出していました。 まだ汽車は、比較的ゆっくり走っていまし
たが、それでも六歳の子で、栄養失調の足では追い付けないかも知れない。

 ただ呆然と座っている子、大声で泣いているだけで、一歩も足が動かない子もいたが、しかし私は、
体に残っている、わずかな力を振り絞って、走り出した汽車を追いかけました。

  「かあちゃん!」 
  「英坊!」
 汽車から落ちそうになっている母を、兄や姉たちが、後ろから引っ張っている。 ダメだ、追いつか
ない……。

  汽車が加速すると、もう母とも、二度と会えなくなるのだ!
 兄弟の多い家庭では、売られる子供は末っ子だ。 しっかり歩ける年長の子供に比べれば、引き
揚げの足手まといになるし、長男を大切にするからだ。

  「いつかは、私も置いてかれるかも知れない……」
 と、いつも恐怖を抱いていました。 だから歩く時も、寝る時も、母のモンペを放そうとはしなかった。
 「私は、とうとう置いてかれるんだ!その方が、いいのかも知れない…」
 幼心に、自らの運命を悟ろうとしていました。 これで、お別れなんだ…、もう走るのを止めようとし
ましたが、今にも汽車から飛び下りて来そうな母の顔は、必死で私を求めていました。

  「英坊! 早く走りなさい! もう少しよ、がんばって!」
 「かあちゃん!」
 最後の力を振り絞って、手を出すが、どうしても届かない。 勢い余って、転んでしまい、線路の上
に、したたか足を打ち付けた。

  「英坊、立ち上がるのよ!」
 母の声に慌てて起き上がり、再び汽車を追う。 乗っている時には、ゆっくりと進む汽車を、うらめし
く思った事もあったが、今は、それが幸いしている。 どうか、どうか、後もう少し、速度を上げないで……。 
心の中で祈りながら、私は右手を差し出して、必死に追いすがりました。

  「英坊!」
 その時、上半身を投げ出して、手を伸ばしている母の手に、私の手が奇跡的に触れました。
 「かあちゃん!」
  私は最後の力を振り絞って、母の手つかみました。 その瞬間、暖かい手が小さな私の手を
ギュッと握り締め、
肩が抜けそうに成るくらい、勢いよく引っ張り上げました。
  「英坊、ごめんね! 怖かったね」
 母は、安心と恐怖がゴチャ混ぜになりながら、とめどもなく泣いている私の手を、今度はソッと握り
ました。

 「ごめんね、かあちゃんがギュッと握ったから、赤くなっちゃったね」
 母の手に包まれた私の手は、真っ赤になっていました。
 地平線がクッキリと弧を描く、雲ひとつない荒野に、大きく赤い夕日が沈んで行こうとしていました。 
皮膚は脂っけが微塵もなく、汚れと煤煙で、とても六歳の子供には見えませんでした。 しかし、
私の小さな手は、まるで紅葉のように大陸の夕日に燃えていました。

 汽車はガタン、ガタンと音を立てゝ速度を上げて行きました。
 昭和二十二年三月、やっとの事で日本に、たどり着いた私たち家族は、四国の高知にあった収容
所に、引き揚げ者、百世帯と共に入りました。

 なにしろ皆、食べる物がなくて、栄養失調状態でしたから、近所の畑に成っているイモやカボチャな
どを、全部、食べてしまうのですから、お百姓さんも、えらい迷惑で、害虫の大群が来たようなものでしたね。

 私が小学校に行く前に、畑でスイカを盗んで、ため池に沈めておくと、少しは冷えました。 もちろ
ん、その当時には、冷蔵庫なんかありません。

 学校に行っても、教科書やノートなどもないのですから、勉強は出来ませんでしたが、牛乳を飲ませ
てくれますので、皆が行っていました。

 その牛乳を飲むと、子供のする事がなくなるのですから、帰って来ては、ため池のスイカを割って食
べていました。 それが、毎日の生活でした。

 現在、不況やリストラやと言っていますが、その当時は、大人でさえ食べるものがなく、もちろん仕事
もないのですから、腹がすかないように、木蔭でジーッとしていました。

 そのうち、アメリカから援助物資が届くようになり、大人も子供も、原色のアロハシャツを着て、生活
できるようになりました。

 その援助物資の中に、硬式野球のセットが入っていましたが、日本人はゴムのボールしか見たこと
がないので、皮の硬式ボールに、大人も子供も興味深々でした。

 仕事もないので、大人たちが野球をやっていると、その回りに子供たちが集まって、興味深く見てい
ました。

 ある時、大人の打ったボールが、ある少年の前にコロコロと転がって来ましたので、その少年が軽く
投げ返しますと、そのボールがスーッと、まあ、目にも止まらぬ早さで、飛んで行きました。

 それを見た大人たちは仰天して、この少年は神の申し子や、天才やと言うウワサが、村中から、
四国全域にまで広がって行きました。

 皆から、おだてられた私は、学校へも行かず、毎日、野球ばかりしていました、「好きこそ、ものの
上手なれ」で、こいつが上手になって行くんですよ。

 徳島商業高校のエース・ピッチャーとして、夏の甲子園の第四十回記念大会で準優勝したので、
プロ野球からは、引く手あまたとなりました。

 その当時は、大学生の初任給が一万円足らずで、百万円あれば「百万長者」と言われていました。
 大学卒の長嶋さんと巨人軍との契約金が、一千八百万円でしたが、しかし上には上がいるもので、
この私と中日ドラゴンズとの契約金が、なんと二千万円で、巨人軍の長嶋さんや王さんよりも、
二百万円も高額でした。

 これで私が、どれ程すごい選手であったかが、お分かりになると思います。
 昭和三十三年十二月、中日ドラゴンズから、この天才少年を欲しいという事で、高知の我が家へ
やって来ました。

 その当時は、昔の聖徳太子の一万円札が発行されていましたが、板東家の窮状を見越して、
それも悪こぎに、現金二千万円を千円札で持って来ました。

 アタッシュケースに詰められた二千万円のお金を、私の父の目の前に出したものですから、その
お金に目がくらんで、思わず判をついてしまったのでした。

 今でいうと、七億円ぐらいのお金ですから、そりゃあ、すごいものでした。
 その翌日の新聞に「板東英二、契約金二千万円!」と出たら、それからは、知らん親戚がボコボコ
と、たずねて来るようになりました。

 野球選手になってから、しょっちゅう「小柄だからスタミナがなく、一年間、投げ抜けない」などと言
われましたが、それは間違いで、小柄なのは、幼少期に栄養がとれなかったからです。

 しかし、徳島の野山を駆け回り、高校野球で異常な程、練習をさせられたお蔭で、スタミナには
自信がありました。

 捨てるものなど、何もなかったからこそ、がむしゃらに生きて来れました。
 しかし、結婚し二人の娘が生まれ、ようやく守るものができましたので、余計、がむしゃらに生きな
ければと思うようになりました。

  「球団から頂くお金だけで、十分」
 同年代のサラリーマンの収入よりかは、はるかに高額ですが、その分、野球選手は寿命が短い
のでした。

 肩とヒジに、爆弾をかかえていたので、いつ、お払い箱になるか分からない状態でしたので、いろ
んな事業をやってみましたが、失敗して一文無しになってしまいました。

 その心労がたたって急病になりましたが、やけを起こして病院にも行かずに、もう死のうと思いました。
 でも、死ぬ前にひと目、かあちゃんに会いたくなり、タクシーで駆けつけました。
  「英坊、どうしたん?」
私は、顔面蒼白で脂汗を流してながら、
  「かあちゃん、俺…もう、あかんわ」
 「なに言うとんの? ええから上がり」  靴を脱ぎかけた途端、玄関で嘔吐しました。 
吐いても吐いても治まらず、最後には胃液が、こみ上げて来る。
母は小さな体で、私を居間まで引きずって行くと、自分の膝の上に寝かし、やさしく額の汗を拭いてくれました。

  「とにかく病院に行かなあかんよ。 救急車、呼んだるわ」
 「ええんや、かあちゃん。 俺、もう死のう思うんや」
  「アホなこと言うでないよ。 あんたはちゃんと、やってるかと思ったら、ほんまに、あきれたわ…」
 「かあちゃん、そんなこと言うたかて、もうダメなんや…」
  「英坊は、どんな時も、かあちゃんのモンペを握って放さなかったやないか。 それで今日まで、
生きてるんやないの」

 「でもな、かあちゃん。その割には、俺はずいぶん長く生き過ぎた気がするし、人の二倍も三倍も、
いろんな事を経験したわ。自分でも、もうこの辺で、ええやないかと思うんや。今日、腹一杯になる
だけの飯が食えれば、ええと思って、ここまで生きて来た。 でも最近は、もう何の為に生きとるのか、
分からんようになった。希望がないんや。
もう生きる意味が分からんわ。教えてくれ、かあちゃん…」
  「かあちゃんだって、いつも必死で生きとるだけや」
 「何もしないでいるのが嫌で、いつも走ってたやろ。俺は一体、何に追いかけられとるんやろな〜」
痛みで途切れ途切れになりながらも、母に向かって思いのタケをぶつけた。
 「甘えたことを言っとんやない! 英坊はかあちゃんに、また子供の葬式を出させるつもりか? 
うちは兄の良介だけで、たくさんや!」

 「あんたは死の渕から這い上がって来た人間や。何人の人が死んで行った思うとんの? かあちゃ
んと一緒に見たやろ? 満州で栄養失調になって死んで行った親子を。汽車に轢かれた母親を。
せっかく日本に帰って来ても、コレラにかかって、船の上から投げ捨てられた子供を! あんたは
生きる力があるから、ここまで来れたんや。あの時の事を考えたら、どんなに辛い事があっても乗り
越えられるハズや!」

 母も私も、大粒の涙を流していました。
 「あの時は、あんたを満州に置いて来た方が幸せになると思うた。このまま連れて歩いて、ひもじい
思いをさせるよりも、中国人に預けた方が、ええと思うたんや。かあちゃんは心の中で、あんたを捨て
たんやな。今はもう、あんたが、いくら頼んでも捨てへんで!
二度も子供を捨てられる、親がおるか?
 英坊、かあちゃんを許して…」

  「…あたりまえや」
母の、その一言で、心の中の空洞が満たされて来るような気がした。胃の痛みで苦しみながらも、
穏やかな気持ちになって行くのを感じました。


 bandou2 「英坊、二度と死ぬなんて言ったら、あかん。精一杯生きるんや!」
 と言って、母は静かに、私の頭を膝から
 下ろして、救急車を呼びに行きました。

 母のお蔭で、私は、また命びろいをしたの
 でした。

 その中日ドラゴンズには、十二年間いて、
 活躍をしましたが、最後には、肩をこわして
 引退し、野球解説者を経て、今はタレントや
 司会者・俳優として活躍しております。

 そして高倉健さんと共演した、映画「あ・うん」
 にて、幸運にも、日本アカデミー賞の最優秀
 助演男優賞を受賞する事ができました。

 これからも、色々な所で頑張って行きたいと
 思いますので、応援の程よろしくお願いします。


  (静照寺本堂にて、板東さんのお話)

 では最後に、今日おこしの皆様方が益々ご健 康で、この静照寺さまが益々発展いたします
事を、心からお祈り申し上げて、私の話を終わらせて頂きます。

 どうも、ありがとうございました。