宮沢賢治の童話「おきな草」
ベストセラーになった絵本「葉っぱのフレディ」と同じく、誰にも避けら
れない 「死」という、できごとを、どのように納得する事ができるのか?
「葉っぱのフレディ」の、おさらい。
春に生まれた一枚の葉が、秋の紅葉を経て、冬に散って行く。という物語を擬人的に描いている絵本です。 「まだ経験したことのない死は、恐いと思うのものだ。でも考えてごらん。世界は変化し続けているんだ。変化しないものは、一つもないんだよ。春が来て、夏になり秋になる。葉っぱは、緑から紅葉して散る。変化するって、自然なことなんだ。フレディ、君は春から夏になる時、恐かったかい?緑から紅葉する時、恐くなかったろう?ぼくたちも変化し続けているんだ。死ぬことは、変化の一つにしか、すぎないんだよ」と。 死を目前にして、葉っぱのフレディは、さらに、自分の木に聞きます。「この私の生涯は、意味があったのだろうか?」と。 その木は「人間の為に、木陰を作ったこと、紅葉して、みんなの目を楽しませた事など、十分に意義のあったこと」を教えます。 最後に、葉っぱのフレディが地面に落ちた時、自分の木の全体が見え「この木ならば、いつまでも生きているに、ちがいない」と、確信しました。 たとえ、この木が滅びても「いのち」は永遠であり、「大自然の設計図は、少しの狂いも無く、いのちを変化させ続けているのです」 |
「おきな草」の、あらまし。
「おきな草」は、春に赤黒い花をつけ、その下を行き交うアリたちは、太陽の光の具合で、真っ赤にも、真っ黒にも見える、この花をなによりも愛していました。 この花も、秋には「フサフサとした、銀毛の房」に変わります。そして「おきな草」は、空の雲の変幻自在な動きに魅せられ、その風のすばらしさに、感動していました。 ある日「おきな草」は、いつか、あのような、すばらしい風に乗ってみたいものだ、と言うと、ヒバリは、もう二ヶ月もすれば、あなたも飛ばなければ、ならないのですよ、と教えました。 そして「おきな草」の種が、いよいよ風に乗って、飛んで行く日を迎えました。そこでヒバリが「飛ぶのは、恐くないか?」と、たずねると「いいえ、飛んで、どこへ行っても、野原は、お日さまの光で、いっぱいですよ。ぼくたちがバラバラになって、たとえ、水たまりの上に落ちても、お日さまは、ちゃんと見ておられますよ」と、答えました。 やがて、すき通るような風が吹いてくると、それに乗った「おきな草の種」は、「さよなら、ヒバリさん。さよなら、みなさん。お日さま、ありがとうございました」と、言って、銀毛の房は、一本一本がバラバラになって、飛んで行ったのです。 この「おきな草」のたましいは、天に登り、星になったのでした。 |
☆、人間の命を喩えて言うならば、この私の命は、大昔から遺伝子を通じてタテにつながっていますね。 しかし、この社会は人間どおしの横のつながりで成り立っています。 このような、縦と横のつながりがあって、その中で、この私は「今」「ここに」生かされているのですよ。
また、こういう言い方もできます。 海を大きな命に喩えた場合、その海の水を一人分だけ人間の肉体にそそぎ込んだら、この私が生まれて、人の一生、七十年か八十年たって寿命が尽きた時、この私の水を海に戻します。 しかし、その水が「死」と共に無くなった訳ではなく、大きな命の海に帰って行っただけなのですね。
この私の命の水を、肉体にそそぎ込んでくれた「誰か」を神仏と呼んだり、サムシィング・グレイトと呼んだりするのですね。
☆、おシャカさまの言葉「過ぎ去った事を追いかけては、いけません。また未来の事を思いわずらっても、いけません。過去の事は、すでに捨てられたものですし、未来の事は、まだ来ていませんからね。だから今、現在の事柄をよく観察しなさい。心を動揺させずに、今ある事柄を見極め、そして実践しなさい。今日しなければならない事を、一生懸命、しなさい」
☆、この私の人生が、良きにつけ悪しきにつけ、まわりの人々や後世に、何らかの影響を与える訳ですから、死ぬ間際に「いい人生だったなぁ〜」と思って、微笑めるようなものにしたい、と念願します。