3、少年犯罪について

○、松原泰道師は「宗旨や宗派を超えて、人間としての源泉というか、基本的な思想
を学
校で教えるべきだと思う」と言い、次のように語っています。「それは厳粛、敬虔、
邂逅の三つです」
厳粛とは、今は今しかないとい観念。敬虔とは、個はそのものだけ

では存在できず、必ず他とのかかわり合いがあって、初めて個は存在できるというこ
と。邂逅とは、他者でなく、真実の自分とのめぐり合いです。
また、首相も「学校
の中でしっかり宗教観を教えなければならない」と強調しました。
「勉強」という
二文字は、とても辛くて重く、不幸な親子関係を生み出している
状況の中で、生きて
行く為の、基本的な考え方を教えていく、必要性があるのでは
ないでしょうか?


○、今の少年たちが、思春期につまずき易いのは、あまりにも幼い時から「教育市場」
入れられているからなのでしょうね。
少年が、高校・大学を卒業するまではと、自立する機会を、親や学校によって、先送
りされてしまうからですよ。
自立すると言う事は、小さな悪を積み重ねる事によって、自分のイノセンスを壊す事
や、自分の行動に、責任を取れるようになるのです。
そうした機会を奪われている為に、思春期になると、大悪(殺人)を犯す事によっ
て、一機に自立を遂げようと謀る少年が、出てくるのですね。
だから「誰でも、いいから、殺してみたかった!」という、動機を持った少年が、増
えて来てしまったのですよ。

○、今の若者にとって「いのち」とは、それほど大切のものと思えないのかも…?
かけがいのない、たった1つの命だと、心の底から思えないのかも…?
無理もない、大人から「いのち」について教えられていないのだから、他人の命の尊さ
だけでなく、自分の命の尊ささえ分かっていないに違いない…


○、この私は人間ですが、でも最初から人間だった訳ではなかったのですよ。
まず動物の中の「ヒト」だったのですが、この私が他の「ヒト(家族や友人)」と出会って、色々な
事を学び、人間になったのですね。 なぜなら人と人とが向かい合うと、間(あいだ)ができる
から、人の間と書いて「人間(じんかん)」と言うのです。 この私は「ヒト」から「人間」になったの
ですよ。


○、精子と卵子が結合して子供ができるのですが、男性が一度に射精する「精子」の数
は数100億個で、その中で、たった1つの精子が、女性の卵子と結合して、新しい
生命が生まれるのですから、この私の命は、数100億分の1という、ものすごい
チャンスに恵まれた結果なのですね。


○、あなたは、数100億分の1という生命を代表して産まれた、すばらしい命なの
ですよ!

こんなに有り難い生命をいただいて産まれておきながら「生んで欲しくなかった!
頼みもしなかった…」なんて言えるのでしょうか?


○、このように奇跡的に生命を授かっていながら、東南アジアの国々では、平然と人身
売買が行われていて、若者が安いお金で買われて、臓器を抜かれて、捨てられるのです。
中近東やヨーロッパの大金持ちが、自分の臓器移植に使う為ですよ。 まだ日本は、
そこまで行っていないから、ありがたいですねぇ〜


○、幸福になりたければ、自分と他人との間を、幸せになる条件で埋めることです。
ムカついても、イラついてもいい。キレてしまって、相手を傷つけると、お互いが不幸になる条件
なのだから、幸福にはなれません。 キレそうになったら、深呼吸をして、その気持ちを飲み込む
のですよ。 そうすれば、不幸になる条件を作らずに済みますからね。


、この私の命は、たった一つの尊い命です。
この私の命の誕生は、過去の多くの人々の命があったからこそ産まれて来たのであり、奇跡の
ようなチャンスに恵まれたからですネ。

だから尊い、かけがいのない命を無駄に使ってはならないのですよ。

「わが命をいただいた、母あるは幸いなり、父あるは幸いなり、
ご先祖あるは、さらにさらに幸いなり」


  4、なぜ、人を殺しては、いけないのか?

○、「なぜ、人を殺してはいけないのか?」と、誰かに、たずねられた時、逆に、その人に
「あなたにとって一番、大切な人は誰ですか? 自分の命よりも、大切にしたい人はいますか? 
たとえば、その人が理由もなく殺された時、あなたは、『なぜ、殺してはいけないのか?』と
言えますか?」と、聞きたいですね。

○、自分に、大事にしたいものがある、自分の命よりも、大切にしたいものがあるからこそ、
それが、訳もなく殺されたりした時、怒りが生まれますね。 だから、その怒りを、他の人にも
共有させたいと、誰でも、そう思います。 これが復讐心なのですよ。

○、暴走族の一人が抗争で死んでしまい、その仲間が「仕返しをする」と言って、暴れた時、
「その前に、お通夜に行って、祭壇に飾ってある写真を、しっかりと見て、その写真を、
自分の顔と入れ替えて、よく考えて見て来なさい」と話しました。 
戻って来た、その少年は「怖かった」と言っていました。 
他人の死と向かい合って、学ぶものは、大切なものを失う、つらさや悲しさではないでしょうか?


○、世界で一番、愛するものは自分自身ですね。 そのように、他の人々も、みんな
自分自身が一番、いとおしいのです。 だから、自分がされてイヤな事を、他人にして
は、いけないのですよ。

○、この事を、真に理解するためには、「ほんとうの自分」が分からなければなりませ
んね。 自分自身の命のかけがえのなさを実感してこそ初めて、他人の命の大切さが、
本当に理解できるのですから。

○、すべての人には、自分自身で、自分の価値に気づく可能性。つまり、自己の本当に
目的に気付く潜在的な能力を、平等に持っているのですよ。

○、殺人の罪とは、被害者の命を奪った事により、その人が自ら、自分自身の真実に気
づき得るであろう、可能性を強引に奪ったという事実。つまり、平等に与えられている、
人としての「生まれ持った権利」を奪ってしまった、という取り返しのつかない事実なのですね。


○、自分では気がついていないが、人は誰でも「真実の自分」とでも呼ぶべき、自己の
価値を持っています。 その自分の価値を捜し、その努力が実った時、悪の可能性が大
きい「愚かな考えしか持っていない自分」と、そして、自己の価値を知った後の「価値
に気づき目覚めた自分」の、両方を体験したことになります。

○、「目ざめた自分」から「おろかな自分」をながめた時、今まで自分は、なんとバカ
だったのだろうか、と思うであろう。 しかし、どんなにバカであったとしても、自分
が、それを乗り越える事ができた、という経験から考えると、他の人々が以前の自分の
ように、たとえ今は、どんなに「おろかなバカ」であったとしても、何時かは、自分と
同じように、それを乗り越える事ができるに違いないという、信念を持つ事ができるでしょう。

○、人を殺すという事は、その人が持っている自分の価値を、その人が発見する前に、
その可能性を奪ってしまう事ですね。 結局、自分の価値を見出せない人こそが、殺人
を犯してしまい、加害者と被害者の二人とも、自己の価値を見出せずに終わってしまう、
という悲しい結果になるのです。 だから人を殺しては、いけないのですよ!

○、人生において、最も重要なことは、ほんとうの自分、自己の価値に気付き、それに
基づいて、大きく輝いて生きる事なのですからね。


○、人間は誰でも、生きて行く権利があるのに、それを他人が勝手に奪ってはいけない、と言う事ですね。

○、殺された人の家族だけでなく、殺人犯の家族や親戚の生活をも、狂わせてしまう事になるのですよ。

○、人間の命は、何代もの父母を経て、つながって来たものだから、自分の命であっても、個人
のものではない、と言う事ですね。


○、キリスト教は入信して、神様と契約を結ばないと、救ってもらえません。 つまり
「入った人だけ、守ってあげる!」という事なのです。 仏教では「自分は、仏さまの
子供である!」と、自覚すれば、それで救ってもらえます。 それが「自己の価値を見
いだす」という事なのですね。

しかし、自分の生きている中に、腹の底から、しっかりと自覚しなければ、いけませんよ!

◎、私は今、この年齢になるまで、かぞえ切れない程のお米や、動物のお肉や野菜など
の植物を食べる事によって、今日まで自分の命を保って来ましたね。 それは、すごい
数の動植物の命をいただいて来た事になるのですよ。


◎、このように、私が生まれてから今日までの間、私は数え切れない程の生き物と、命
を共有しているのですね。 だから、この私の命は、自分だけのものではなく、多くの
生き物に支えられて、それら、すべての命を宿した尊い、この私の命なのですよ。


◎、だから人を殺す事は、それらの、かぞえ切れない程の命を殺す事になり、ひいては
自分自身の命を粗末にする事になるのですから、
自分勝手な行動は許されませんね。

◎、「すべての命が、この私の中に宿っている!」という教えのように、この私を今日
まで生かしてくれた、無限の命に感謝して、自分の命を、多くの人々の為に活かす事が、
私の使命なのですね。