静照寺つうしん         

静照寺通信(第1回)
「生きていくことは、むつかしいが、生かされている事に気づくのは、なお
、むつか
しい」
「不幸やストレスは、私たち人間を苦しめると言うが、よく考えてみると、
私たちを
苦しめるのは、 不幸やストレスそのものではなく、『私は不幸だ』
・『ストレスで、いやだなあ』
と思う、 この私の持っている、考え方なの
ですね」

だから「今が楽しい、今がありがたい、今が喜びである。という、プラス
思考が習慣
となるような、 生き方こそ、大切なのです」
経済不況が、私たちに「リストラうつ病」を蔓延させ、それによって、経済
活動の萎
縮を起こしているのです。
このような時代にこそ、陽気で、生命力のある「日蓮聖人の信仰」が大事な
のです
ね。
「元気いっぱい、日蓮宗!!」キャッチ・フレーズ
「いよいよ、ますます、これから、だんだん」と唱えて、「ますます健康に
なる、仕
事ができる」と、 そう念じなさい。これが「人生の応援歌」であ
り、「元気になる言葉」なのです
よ。
             
静照寺通信(第2回)
東海村の原子力事故や新幹線トンネルのコンクリートの事といい、大事な基
本を忘れ
て、 コストダウンの為に、手を抜いた事によるものです。
このような事件が、二度と起こらないようにする為には、皆が、もう一度、
初心に
返って、 基本や手順に忠実にならなければ、なりません。
「子供から、すぐに老人にはなれない」という、ことわざの通り、段階を踏
まなけれ
ば、 上には進めないのです。
「初心、忘れるべからず」(能・世阿弥)慣れてくると、私たちは易きに流
れてしま
います。
また、慢心することも多くなりますので、それらを取りのぞいてくれるフィ
ルタ
が、初心なのですね
私たちは「心の障害者」とならぬように、気をつけねばなりません。

静照寺通信(第3回) 
:「 仏教における胎児の取り扱 いと、人は何時から人か?」という、質問の
メールがきました。

「私は医学者ですが、外国の友達が件名の問題を私に質問し ました。これに
答えなければなりませんが、仏教は私の
専門外ですのでお教え下さいませんか。
1. 仏教解説本を読んでも人の誕生以後の問題は詳細に わたって書かれていま
すが、誕生以前の胎児はどのように
取り扱われているかが不明です。仏教では
妊娠中の胎児は
出生後の子供と同じに取り扱われていますか? そうで なけ
ればどの様に考えてどのように取り扱われていますか?


(NOMAのお坊さん達の公式意見)
仏教経典においては、人の誕生以前(というより受精以前)や死後 について、
明確な世界観をもって説かれておりません。

なぜなら仏教は本来、生きている者の苦しみを取り除き、釈尊とまっ たく同様
の人格、すなわち「仏」にいたらしめるための教えだから
です。
また輪廻の思想も仏教の基本に存在しますから、私たちが普段考え る時間や
空間に対する概念を超越しており、生と死に対しても、単
純に「始まりと
終わり」といった区別をしません。

ただし、後にインドの大仏教者である世親(天親)菩薩は、小乗経 をもとに
著した論文『倶舎論』において、輪廻(りんね)の考え方に基づいた
四有
(しう)<生有・本有・死有・中有>の思想をとりあげ、人の生から死、

死から生へのプロセスを究明されています。
では、御質問にある胎児と出生後の扱いの違いについてはどうか?
仏教ではそのような違いどころか、人間以外の動物や植物、さらに は石や
金属といった鉱物にいたるまで平等に「仏となる性質」を備
えていること
から、それらにはなんの差別もないと考えます。

ましてや妊娠中の胎児と出生後の子供は、同じく人の生命を宿して います
から、まったく同じ扱いになります。

ただし、子供が育ちにくかった時代の名残りもあり、後に亡くなっ た子供を
供養する際、思いを至らしめ、やすくするためにも、出生
前に亡くなったの
か、あるいは何歳ぐらいで亡くなったのかが判る
よう、「戒名」で区別する
場合はあります。
              

(参考意見)
かぞえ歳では、生まれたての赤ん坊を、一歳とかぞえ、お正月で年齢が増えて
行きま
妊娠中を、ちゃんと計算に入れているのですね。
仏教は、かぞえ歳を使っています。    

2. 仏教では、人は何時から人でしょうか? 私はキリスト 教者ではありませ
んが前述の友達によると、キリスト教
では、受胎(conception)の時から人は人
であるとし、これが
妊娠中絶反対の根本理由にもなっているようです。仏教で
どのように考えているのでしょうか? たとえば
  a.卵巣のなかの未受精卵の時期から人と考える。
  b.排卵して卵管にはいり、精子と合体する前から人で ある。
  c.受精(卵と精子の合体)から人である。
  d.受胎(受精卵が子宮に着床する)が人の始まりである。
  e.妊娠のある時期から人である。たとえば、
     1)妊娠第何月(または何週)から人である。
     2) 胎児(又は胎芽)に心臓拍動が見られたら人で ある。
     3)胎児の動きを母体が感じた時から人である。
     4)誕生(出生)の時から人である。
     5) 生まれても、重大な欠陥があって生存し続ける 見込みがなけれ
ば人の出生とは言えない。

  f.その他の定義や考え方があればお聞かせ下さい。

(NOMAのお坊さん達の公式意見)
仏教では、このような設問自体が無意味と言えば無意味です。 ご存知のよう
に、キリスト教では「人」と「人以外のもの」を厳し
く峻別します。
他にも色々と「区別」することが多い宗教ですね。
おそらく、そうしたキリスト教の影響下にある精神風土が、このよ うな設問を
せずにはおられない状況を作っているのではないでしょ
うか。
禅問答のように思われるかもしれませんが、人は「人」であると同 時に「人」
ではないのです。
というより「人以外のもの」でもあるのです。
したがって「人」と「人以外のもの」を厳しく峻別しておらず、そ
の定義も
ありません。

あえて「人」だけに着目して考えれば、あるいは「人としての形」 にこだわ
って考えれば、受胎の瞬間からということになるのかもし
れません。
しかし、それでも「人はいつから人なのか?」という発想は、仏教 には無い
ように思います。

前述した通り、仏教では「輪廻(りんね)説」をとります。
そして人が死ねば、自らが持つ「因縁」に合致する生まれ場所(或
いは両親)
を探すとされています。

この場合、人は「人」にしか生まれ変らないと考える方も最近はお られるよ
うですが、伝統的な考え方では、それが何であるのかは定
まっていないよう
です。

ですから、いま自分の血を吸った蚊が自分の親兄弟であるかもしれ ないとい
う考えや、いま踏みつけようとしている雑草が先に亡くなっ
た誰かであるか
もしれないという考えが起こり、むやみに他の生物
を殺さないという「戒
(かい)」ができたのです。

さてここで、思考実験のつもりで逆に質問させていただくことをお 許し下さい。
仮に御質問のe-3の様に「胎児の動きを母体が感じた時から人であ る」とな
ったら、その前の状態は一体何だというのでしょう。

人ではないから、殺しても(中絶しても)構わないということにな るので
しょうか。

a,b,c,d,eの、どの事項に関しても同じ疑問が残ります。
妊娠中絶は決して勧めるべきことではありませんが、時と場合によっ ては
「止むを得ず」ということもあるかもしれません。

しかし「人ではないから構わない」という基準や保証は、仏教では 決して
説かれていません。

今回のような御質問が出てくるのも、神が生活のあらゆる場面に口 を出し
世話を焼く(お節介をする)キリスト教と、「自業自得(じごう、じとく)
」が
建前の仏教との違いなのでしょう。

(参考意見)
受胎でもいいでしょうが、生命の始まりは、受精の時になるのでは、ないで
しょうか
仏教でも、妊娠中絶には反対です。
しかし、中絶してしまった人の罪の意識を、救う為の、1つの方法として、
「水子供養」をして、深く反省し、二度と、過ちを繰り返さないようにと、

お誓いするのです。

 静照寺通信(第4回)  
毎日新聞・夕刊に「女人禁制の大峰山に、女性14人が登山を強行」と
いう
記事が、掲載されていました。
奈良教職員組合の女性教師で、「信仰や伝統の名のもとに、差別されている
のが、納
得できなかった」とのこと。
大峰山を管理する修験道の僧侶は、「信仰心の厚い、女性信者のために教団
が『開
放』を考えている中で、信仰とは関係のない、このような行動で、
既成事実を積み上
げらるのは、好ましくない。伝統を守っている中で、突然、
意図的な行動に、たいへん困惑している」と、述べています。
さらに大峰山修行には、岩場登りなど、危険な事もあり、ちゃんと指導でき
る体制が、整ってからでも遅くないと思います。

これは、男女平等の本意を取り違えた、「悪平等」を助長する行動で、特に
教師がし
たことに、問題があると思います。男女は、それぞれの役目に徹す
る、ところから、
平等が生まれてきます。
東京のある小学校では、給食の時の「いただきます・ごちそうさま」は、手
を合わすから、
宗教行事であるとして、中止にしている、そうですが、これ
も変な理屈ですね。

山梨県の身延山のそばにある、七面山も昔は「女人禁制」でしたが、徳川家
康の側室
・お万さまによって、はじめて開かれました。
慶長十三年、家康公の命により、京都・六条河原において、日蓮宗の僧六人
が、鼻そ
ぎ・耳そぎの刑に処せられました。身延の日遠上人は、原因となっ
た浄土宗との論争
の無効を訴え、家康公にやり直しを嘆願しました。
しかし、家康公の怒りにふれ、日遠上人を死刑にしようとしましたが、お万
さまの命
がけの、お願いに、さすがの家康公も、お許しになられました。
この法難に際しての、お万さまの信仰は、天下に鳴り響きました。
お万さまの子供は、紀州・和歌山の頼宣と水戸の頼房で、徳川御三家のうち
の二人で
す。
家康公の死後、お万さまは尼になり、身延山で三回忌の法要をした後、七面
山のふも
との、白糸の滝で水垢離をとって、「罰は、私が代表で受けます」
と言って、女性と
して、はじめて七面山にのぼられました。
女人禁制を解いたことを、永くたたえる為に、銅像がたてられています。
最後に、大相撲・大阪場所で、女性の太田知事が大阪府知事杯を授与する時
に、土俵に上がる事については、賛成します。これは、大峰山のケースとは、
意味が違いますのでね。


静照寺通信(第5回) 
人間はプラス・メッセージを感じ取る能力が大切である。マイナス・メッ
セージを大事にする人は、心も体もマイナスの人となる。

宇宙のすべてのものを育み、慈しむプラス・メッセージの力を、
み仏と言います。
自らを、み仏のパワーに身をまかせて、行動することは、
みずからも、プラス・メッセージを発する、み仏の
一員となることなのです。
仏教では「自分がさとってから、人を救おうとしても無理である。
自分は悟っていなくても、先に人をすくいなさい、そうすれば、
共に、悟りの世界に達することができる」と、いいます。
私たちが、よりよく生きるためには、まわりの人々へプラスエネルギー
で、接することが大切ではないでしょうか?
                   
静照寺通信(第6回)   
「生きるとは、いのちを分け合っていくこと、
だから、いたわりあって、いくんだよなあ」 (布施)おもいやり
「正直ものが、バカを見ることもあるさ、
それで、また人生に味が出てくる」 (持戒)いましめ
「人間がつくっている世の中だもの、
私に耐えられない、苦しみなんか無いんだよ」 (忍辱)たえる
「失敗するって、とても大事なことなんだ、
そこから、新しい道が開けていくんだね」 (精進)はげむ
「自分の短所がわかれば、それだけ人生に強くなる、
長所が分かれば、それだけ人生は深くなる」 (禅定)こころ
「どうにもならないことを、どうにも、ならんなあ、と
明きらめる(諦める)のが、悟りです」 (智慧)真実を見とうす